京焼・清水焼とは

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【京焼・清水焼とは】

京焼の伝統技法、意匠を受け継ぎ、手造り・手描きによって生産される陶磁器を京焼清水焼(きょうやき・きよみずやき)と呼びます。

王朝文化に彩られた京の都では、およそ400年前から貴族や茶人達により、もてなしの器、嗜好品として、様々な種類の器が求められました。
その要望に応える為、京焼は日本各地のみならず東アジア周辺地域から意匠・技術を取り入れてきました。
したがって京焼・清水焼は一つの原料、技術で造られるものではありません。

京焼・清水焼の特徴は、
各地より様々な原料を取り寄せ、あらゆる地域の優れた意匠・技術が取り入れられ京都の文化の中で洗練された、総合的な陶磁器の産地です。
優れたデザイン性と高度な技術を受け継ぐ為、今日でも手造り手描きによって一つ一つ丁寧に作られております。

 

清水焼(灰釉桜)

灰釉桜…現代の京焼の名工蔭山良斎による。良斎が描く草花の枝は生命力、躍動感が感じられる。

 

【京焼と清水焼は同じ】

京焼とは京都(*1)で造られた陶磁器の名称です。京都盆地は東西北の三方を山に囲まれていて、その山のすそ野に焼き物の窯場が点在していました。それぞれの窯場の地名をとり、御室焼、粟田口焼、御菩薩池焼などいくつもの集団が存在しそれらの総称を京焼と呼んでいました。
清水寺(きよみずでら)の麓でつくられていた清水焼(きよみずやき)も京焼の中の一つでした。

 

清水焼

初期のころの京焼と窯の分布


とりわけ、磁器生産によって発展した清水焼は生産力、組織力の上でも大きな勢力を有しました。そのような経緯から清水焼が京焼の代表格となり、『京焼・清水焼』と並び称されることとなりました。


現在では、経済産業大臣指定伝統的工芸品としての正式名称も『京焼・清水焼』とされています。

京焼・清水焼の定義(*2)に基づいて手仕事で生産された焼き物は京焼と言っても清水焼と言っても間違いではありません。ただし、清水焼は主に割烹食器を主とした生産地であった為、茶道具の世界においては伝統的に清水焼とは言わず『京焼』と呼ばれます。


*1京都・・・ここでいう京都とは現代の行政区分で区切られた京都府、京都市ではなく、京都の長い歴史の中でとらえられる一つの文化圏としての『京都』のことです。

*2京焼・清水焼の定義・・・当店では京焼・清水焼の伝統技法を習得したものが、窯元から『京都』に向けて出荷した陶磁器を京焼・清水焼と定義付けています。したがって定義に沿えば滋賀県の窯で生産していても京焼・清水焼ですが、沿わなければ京都府下で生産されていても京焼・清水焼ではありません。

 

色絵柳橋

色絵柳橋

清水焼イメージ【京焼・清水焼の歴史】

 

1、京焼の始まり

 

京焼というのは本来、京都の市民の生活の為に必要とされて作られたものではありません。

京焼が始まろうとする戦国時代末期の安土桃山時代、すでに全国各地の主要な産地では陶器生産が盛んに行われていました。
その後、政治の中心は江戸に移っても京都は都ですから、全国各地からその都人の生活を支えるだけの物品は陶磁器に限らずあらゆるものが手に入りました。
このことから京都で登り窯を構築し陶磁器を制作する必要性は全くありませんでしたし、また、早くから市街地化している都で、原料土を採掘することは不可能でした。

ではそもそもなぜ京都で焼き物を作り始めたのでしょうか?

その要因として、お公家さん、大名、豪商、はたまた、寺社仏閣。大きな経済基盤を有した上層階級の存在が挙げられます。

政治の中心であった江戸に対して、京都・大阪は文化・経済の中心でありました。経済人でもある京都・大阪の上層階級の人々は地の利を活かして、外国と貿易をするなど、豊かな経済基盤の下に富を得ていたと考えられます。
そして彼らの集まるサロンにおいては数多くの中国大陸の明・清朝、朝鮮半島の李朝など東アジア一帯から陶磁器を輸入し、保持することがステイタスでもあったのです。

 

東アジア一帯からもたらされた三島・金襴手の技法

東アジア一帯からもたらされた三島・金襴手の技法

 

やがて東アジアの陶磁器への憧れは京都にて陶磁器を生産するきっかけとなっていったと考えられます。京都において高度な陶磁器文化が発展する礎がここに生まれます。
初期のころ、それまで東アジアの陶磁器を珍重してきた上層階級の人々は自らの好みを体現すべく、その経済力を活かし直接生産させることに成功しました。

桃山時代以後、その様相が変化しました。
茶の湯の流行により、その道具は付加価値を見出され、需要の増加とともに手近なところで多くの人に向けての茶陶の生産が必要になりました。文献によると1600年ころにはすでに京焼という言葉が使われていました。また、その頃には三条粟田口に登り窯が築かれていたとされています。

 

古清水写しと粟田神社

古清水写しと粟田神社

 

2、仁清と乾山

 

仁和寺門前で1650年ころ開窯した野々村仁清や、その弟子尾形乾山(1663年〜1743年)により今日の京焼・清水焼の多くのデザインの基礎が作られることになりました。仁清は姫宗和と謳われた茶人、金森宗和の庇護のもと雅やかな色絵陶器を作り出しました。乾山は兄、尾形光琳との合作によりデザイン化された京焼の特徴的な作風を手がけました。その多くは現代の京焼・清水焼のデザインに受け継がれています。
【琳派について】乾山、光琳兄弟は、宗達、光悦から受け継いだデザインを大成させ後世に伝えました。この安土桃山時代頃より起こる大きなデザインの様式は琳派と呼ばれます。
あらゆる工芸品に取り込むことが可能な計算されたデザイン、分業制に落とし込むことが容易なシンプルなデザイン、現代においてなお京都の伝統工芸品と呼ばれるもののデザインに大きな影響を与えています。

 

仁清写しと乾山写し

仁清写しと乾山写し

 

3、磁器生産の開始と名工輩出

 

京都で磁器が生産され始めたのは北部九州から遅れること実に150年以上の1800年ころ奥田潁川(えいせん;1753年~1811年)によって始められました。潁川は呉須赤絵など輸入陶磁器の写しに取り掛かかります。
このころ京都では煎茶文化が興り流行しだします。どちらかというと武士によって広められた抹茶文化に対し、煎茶文化は貴族、文人墨客らを中心に需要が高まり、京都に持ち込まれた東アジア一帯の陶磁器を写しながら独自の技術が京都で芽生え磁器生産を支えました。 

中国明清朝磁器の写し

中国明清朝磁器の写し

 

 

4、京焼の陶工と写し

 

当初より京焼では

①東アジアの陶磁器の高度なデザインと手仕事の技術を習得する為に徹底して名品を”写し“ました。

②そこから少しずつ独自のデザインを付け加えていき京焼の新しいスタイルとなっていくのです。


以降、抹茶、煎茶文化の広まりと共に京焼の需要は高まり、生産量が増えるとともに新たに陶工となる者の技術の習得が課題となりました。そこで①から②の作業が繰り返されることにより、高いデザイン性、技術を受け継ぐことが可能となりました。

これは京焼・清水焼の陶工の技術習得の伝統として今に受け継がれていきます。

 

絵付けと轆轤で造られた煎茶器

絵付けと轆轤で造られた煎茶器

 

また、京都で陶磁器生産をする、ということは、東アジアの陶磁器に限らず、金工漆芸、呉服、あらゆるデザインの要素を写しとることが可能であり、それらのデザインをミックスさせていくことで、新しい京焼の世界を創出していくことに成功し今に至るのです。

これは京焼に限らず、日本のものづくりの基本的な方法として根付いていくことになります。
そして京焼は今日まで手仕事によって受け継がれていることはもとより、増大する需要に応えるため、原料調達、轆轤師、絵付師、窯師などの分業体制を構築したことで産業として発展しました。

 

5、明治の変革と京焼

 

明治になると京焼の状況は一変します。需要の大きな後ろ盾であった貴族は多くが東京へ移り住みました。廃仏毀釈により京都でも多くの寺院が荒廃しました。しかし、日本の開国によりその文化の多くはヨーロッパ中に知れ渡ることとなり「ジャポニズム(日本趣味)」が流行となります。当然そのジャポニズムの中心は京都の文化となり、京焼もその流れに乗り、輸出時代を迎えるのです。
また、このころ京都には各地から多くの人が移住し京焼など需要の高まる手工業生産の担い手となっていきました。

明治以降、京都の伝統文化が途絶えることなく続いたのは、長年蓄積された、奥深いデザイン性、技術。
海外でのジャポニズムの流行。そしてなによりも茶の湯、煎茶道の家元をはじめとする多くの文化人が京都に居続けたことが一番大きな要因といえます。
しかし、昭和に入ると日本は戦争に巻き込まれていくことになり、京焼の陶工たちも時代の流れに翻弄されることとなります。

 

 

6、戦後の京焼

 

今は五条坂と呼ばれる清水寺から坂を降りきった、大きな交差点を中心とする地域。この辺りは京焼の中でも清水焼の生産地として発展してきました。明治以降生産量が増大し、現在では京焼・清水焼と並び称されるようになりました。
ここは戦争に振り回された悲しい地域でもあるのです。
清水焼の窯元が集まる五条坂から100m南へ下った、馬町は、戦火を逃れたとされる京都市内でも空襲があり死者の出たところでもあります。

空襲とは直接関係はないと思いますが、戦時中は陶器製の手榴弾を作ったり窯元も戦争に協力せざるを得ない情勢だったそうです。
そうして苦難の日々を送っていた清水焼の陶工たちに追い打ちをかける出来事がおきます。

戦後の強制疎開・・・戦後に?、そうです、防災道路として大きく道路を拡張することになった現在の五条通り。もともとは現在の北側の歩道程度の幅だったらしいのですが、50メートル以上南へ拡張されその周辺にあった窯元は根こそぎ撤去、移動せざるを得なかったのです。

清水寺に通じる五条坂

清水寺に通じる五条坂

 

五条坂左側の歩道がもともとの五条通り、右側の車道はすべて強制疎開の跡
戦後の混乱も相まって、窯元としての組織を維持できず廃業に追い込まれた人たちもいます。名工と呼ばれようが容赦なく足を洗わざるをえない人々の悔しさ、無念さ、計り知れないものがあります。

そんな京焼・清水焼も高度成長期には需要が回復し、全国の百貨店でも販売されるようになります。
現在山科区の清水焼団地、強制疎開を免れた一部の五条坂・清水地域、泉涌寺地域一帯、宇治の炭山地域やその他京都以外の周辺地域においても京焼・清水焼の窯元が存続しています。